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いつでも一緒だよ

皆さま、おはようございます。

今日もおかげさまにて命を生かされています。

昨夜は早く休ませていただいたおかげで体調も回復したようで、いつも通りの私になりました。今日は朝一で飯能市までお参りへ参ります。


皆さまもどうぞいつも通りであるならば、為すべきことをさせていただきましょう。それこそが亡き人や大切な方への感謝の姿であり、本来のご供養ということです。


今朝は、阿弥陀さまについてご紹介します。

【阿弥陀さまの境界】

阿弥陀という仏さまはどうして阿弥陀というお名前なのかご存知でしょうか。

私たちは、「死ぬまで煩悩から離れられません。」これを【凡夫】(ぼんぶ)と言い、神さまや仏さまから見放された存在でありますから、本来お救いからは程遠い存在です。


皆さまは自分がそうであると思っていますか。

「いやいや、私は何も悪くないよ、」とか「だって死ねば仏」っていうじゃないか、と思っているのではないでしょうか。

この自覚のなさがまさに【自業苦】=地獄行きの姿であります。

ではなぜ私たちは救いに遇いにくいかといえば、本来【悟り】には、真実の真理に目覚めることが必要なのです。

正しいことをそのまま見る。

一件当然と思うかも知れませんよね。

でも私たちにはそうは受け止められません。


例えば、今受験生は進学のために大変な思いをされていると思います。

春、桜が咲く頃に、一年間頑張って希望の学校に合格した人と、そうではなかった人が同じ花を見たとしましょう。すると同じ花を見ても、合格した人が見る花と、そうではなかった人では違ってみえるかもしれませんよね。


普通は一人一人皆違う見え方があるのです。

これが私たち人間であります。常識も知識も感情も皆それぞれ違うのです。

その上で「私は」「俺が」というのです。

それはネットでSNS投稿を見ればよくわかります。それぞれ専門家のような見事な論理を展開しています。全部わかったような物言いじゃないですか。何か現場を見たかのような、その人のことは何でもわかったような物言い、実は何にも分からないというのに、自分の考えが正しいという決めつけ、これで人々は争いが絶えないのです。

つまり、物事を正しく見ていくことができないのです。だから神仏にしても同じで自分は正しいと思っている人がみる仏さまと、自分は愚かであるという自覚を持ちながら生きている人では見ている世界が全く違うのであります。


阿弥陀さまがどうして阿弥陀というお名前なのか、それは神仏から見放された存在であるからです。自己中心的な自分の殻に閉じこもって生きようとする真実に目を背け、背を向けて生きながら苦悩に悩み続ける私たちを「すべて同じいのち」と目を向けていかれた仏さまだからです。


阿弥陀さまの世界はあらゆる命を必ず救うという願いによって成り立っているのです。

阿弥陀さまはすべてのいのちを等しく我が子のように慈しむように見ていかれます。

親の我が子への親心は、子どもがどのように思おうが、仮に背を向けていようが親には関係ありません。【先手の願い】だからです。

「お前は私の子どもだよ」、「だから全部まかせてお前らしく生きてごらん」と、我が親は、我が子に願い通しに願っでいてくださいます。

たまには厳しく、冷たく感じても、そこには親心が込められているのです。

ただ、子どもはその親心がなかなかわらないから文句を言ったり反抗したりするのです。

「気づいてくれよ」「お前らしくしあわせになってくれよ」、親は我が子それぞれに応じて策を講じます。

子どもはそれは分からないから、「お兄ちゃんはずるい」とか、「お姉ちゃんはずるい」とか比較して不足を言うのです。


でも親から見た我が子は、仮に子どもが4人いたとしたらそれぞれに100パーセントの愛情を注ぐことができるのです。それが親と呼ばれる所以であります。


阿弥陀さまはまるで我が親のように常に私に寄り添い「気づいてくれよ」と、はたらいていてくださるのです。


先程の同じものを見ながら受け取り方が違う話は「境界」です。私たちはそれぞれ違う境界を持ちながら生きています。だから、良いとな悪いとかそれぞれ違う。

阿弥陀さまは、すべてのものを分け隔てなくみていくお力をお持ちくださっておられます。

修行する人もしない人も、成し遂げる人も途中で断念した人も、間違ったものの見方をする人も分け隔てなく「必ず救う」という願いのままに私に届け続けてくださいます。


わからないお前がいるからこそ、私は全部わかっている仏になったのだ、というまるで親のような仏さまになられたのです。

「お前を救えなかったら私は阿弥陀となのる資格は無い」と思い召されて、その上ですべての功徳を私のところへ【南無阿弥陀仏】と声となって届いて、抱いて離さない【摂取不捨】(せっしゅふしゃ)仏さまです。

これをもって「南無阿弥陀仏のすがたをこころうるなり」と言います。


阿弥陀さまと私は離れはしません。

南無阿弥陀仏の声は、「どんなことがあっても、お前の未来を共に開いていくよ」と、常にご一緒くださってあることが届くのです。

悲しみは悲しみのまま、苦しみは苦しみのまま、そのままそのまま、寄り添いくださいます。

分からなくてもいいんです。

信じられなくてもいいんです。

だってそれを承知の上で仏さまになられたのです。だから阿弥陀如来というのだから。


信じたら救うのではありません。


信じさせて救う仏さまです。


私たちもお父さん(パパ)、お母さん(ママ)を信じたからそう呼ぶんじゃないですよね。

お父さん、お母さんが身をかけて私に「お前の親だから」と信じさせてくれたのですよ。

だから、安心して呼ぶことができるのです。


阿弥陀さまも同じです。

「お前の口に南無阿弥陀仏と称えさせて必ず仏にする仏になったぞ」

そう喚び続けてくださいます。

もう我が声に南無阿弥陀仏となった方は、阿弥陀さまが私に宿っていてくださいます。

つまり、もう私と二人三脚でご一緒くださっているのだから安心であります。

後は、私のすべきことをするだけであります。


今日も一日、お慈悲の水にさぶりと浸かり、ご恩よろこぶしあわせ者よ。


ナンマンダブツ、ナンマンダブツ

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