top of page

いずれ皆死ぬよ

執筆者の写真: 超法寺の住職超法寺の住職

皆さま、こんばんは。

凄い風が吹き荒れていますね。

飛ばされそうな勢いですわ。

こんな日は巣篭もりが一番。


明日はまたお仕事だけど大丈夫かな。

早めに出た方が安心かな。

袴要るかな。


さて、今日はやはり「人は皆、必ず死に往く」を再確認したい。

元気だろうと、若かろうが全く何も関係なく、娑婆の縁が切れたら有無も言わさずに私も死んでいかねばなりません。


ただ、死んで終わる命ではありません。


これを知るために今、生きているのだ。

『歎異抄』には、

“名残り惜しく思えども、娑婆の縁尽きて力なくして終わるとき、かの土へは参るべきなり”


我が父の人生最後のお取次でありました。

肝に銘じさせていただきます。


南無阿弥陀仏をこの口にいただいた私はただ、そのまま我が身を任せて、参らせていただきます。それまで、やるべき私の使命を果たすのみであります。


だからこそ、呑気に引きこもっている場合じゃありません。病気だからとか、身体が不自由だから生きていても仕方がないなどと言わないで。あなたの身体はあなたを生かすために必死であなたを生きてくれているのだから。

その想いを無にせずに、生きてみましょうよ。

きっと、何のために生きているかがわかるから。


あなたをこの世に産み育ててくれたお母さんのためにも。お母さんへの感情は人それぞれだけど、お母さんがオムツを替え、乳を飲ませ、朝早く起きてご飯を食べさせて、部屋を掃除して、お風呂にも入れてくれたからこそ、私たちは今、生きているのだから。


間違えても、「生まれてきたくなかった」などと言うあなたにはならないでほしい。


誰でもが人間には生まれてこれないのです。

生まれてきても、すぐに命を終えなくてはならなかった人もいるんだよ。

生きたいのに生きれなかった人の無念さを知ろう。

生きているには必ず意味があるよ。


あの永六輔さん(故人)は、

生きるということは、誰かに借りを作ること。

生きていくということは、誰かに借りを返すこと、と言われています。


私たちは知らず知らずのうちに数多くの方々に借りをたくさん作ってきたはずだから。

生きていくことで、その借りを返すことが大切だと思います。

辛くても悲しくても苦しくても、それでもそれでも生きていくのです。


南無阿弥陀仏のおはたらきに支えられながら。

南無阿弥陀仏に励まされながら。

南無阿弥陀仏称えれば、十方無量の諸仏は、

百重千重囲繞して、喜び守りたもうなり、と宗祖親鸞聖人はご和讃の中でお示しくださいます。


浄土真宗のご縁をいただきながら、南無阿弥陀仏が口にいただけないのが一番親不孝だとお聞かせいただきます。

だって親がご先祖が喚んでいるのに知らんぷりしているのだからね。

きっと、聞こえているなら返事しなさい!

って言っているよ。

でも仏さまになられている先人は、ただ私が受け取ってくれるまで、あの手この手を使ってご苦労くださいますよ。


だって親だもん。

可愛い、可愛い我が子にまた遇いたいもの。

それが阿弥陀の願い、ご本願。

ちゃんともうしつらえてある私の【おさとり】。

後はただいただくだけよ。

硬いステーキを親が噛み砕いて母乳のようにして何もわからない、何もできない私に【声のはたらき】となって届けていてくれる•••••あ〜、なんて我が親って有難いのだろうか。


南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

あなたに届くまで、尽きることなく聞こえてくださいます。

頑固な私が素直になるまで【親】は我が子を見捨てない。


縁が尽きたら嫌でも死んでいかねばならないこの私を、もう先から【大丈夫だそ!】って喚んでいてくださるのです。


もう既にこの口に南無阿弥陀仏が称えられる人は、今お称えしている南無阿弥陀仏は、感謝のお念仏であるといただきましょう。


み仏の誓い(ご本願)を信じ、尊いみ名を(南無阿弥陀仏)称えつつ、強く明るく生き抜きます。


これこそが、浄土真宗の門信徒の生き方であります。


雪や災害に見舞われている方々には衷心よりお見舞い申し上げます。南無阿弥陀仏

Comments


bottom of page