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あの人は今

皆さま、こんにちは。

あの今は亡き安倍晋三元総理が亡くなられて1年が経ちましたね。まさかまさかの出来事に日本も銃社会になったかと驚いたのがついこの間のようです。

未だに公判は行われず、来年初公判とのこと。容疑者は今何を思うのだろうか。

満足しているのだろうか。

彼の母は息子さんのおかげで目覚めることができたのだろうか。


決して他人事ではないと思う。

今もさまざまな新興宗教から脅され、しかたなく献金をしておられる方はいるだろうし、ご家族が苦しんでいるのでしょうか。

きちんと仏法聴聞をしていかねば戯言に惑わされてしまいますよ。

某新興宗教では、「亡き教祖を呪い殺した」などとこの21世紀に普通に報道されたりしていますが、これをあり得るなどと聞いてしまわれたら明日はあなたも被害者になり得ると心配してください。


人の心の隙間に宗教は「脅し」というもので不安にさせます。真実がわからない人にはそれを排除はできないものです。

では真実とは何か。


【あらゆるものを救いたい】という仏の願いであります。すべてを我が悲しみとしてはたらいてくださる真理こそが真実であります。


それを人はすぐ自分で手垢をつけてしまう。

だから真実がわからない。わからないから苦悩するのですね。わかったつもりになってはなりませんよ。


【私を生かしめてゆく力、その力が如来の誓いよりあらわれる】

[土橋秀高(1914-1989]京都府出身


⭕️念仏は、み仏と自分との対話

浄土真宗の宗祖親鸞聖人のお念仏の見方は、『教行信証』(行巻)に述べられ「六字釈」では、南無阿弥陀仏は、阿弥陀如来が、衆生に如来の行をお与えくださる大悲の心より生じた喚び声であると解釈されています。


浄土教の流れでは、南無阿弥陀仏は衆生が阿弥陀如来の御名(みな)を称する【称名念仏】て解釈されてきました。親鸞聖人もこの見方を継承されながら、称えつつ(ながら)、それは如来より賜る大行であり、喚び声であると独自の見方を示されます。


喚び声とは、み仏とお念仏申す衆生との対話であるとみることができましょう。

お念仏申す生活の中で、み仏に聞きみ仏と私が対話し、その中でいよいよ私の救いの道が知らされるということでありましょう。


阿弥陀如来の喚び声について述べられたのは、善導大師であります。

親鸞聖人はこれを継承して「六字釈」で、その解釈を用いられたのです。

善導大師は、人間を【孤独な旅人】にたとえ、その旅人が群をなす猛獣や盗賊に追い詰められ、荒野の中をひたすら走り、火の河、水の河の前にたどり着くという有名な【ニ河譬】を用いられます。

しかしその河は、四、五寸の白道があるのみで、とても危険で渡れそうにありません。

その岸辺に立って、追い詰められていく絶対危機なる旅人に、西岸上より【この道を来い】とのよび声が聞こえ、また背後からは、此岸にあって、【この道を行け】とのこえがあり、その声に励まされ決断して白道を進みゆく姿を述べています。


人がなぜ、お念仏ねみ教えでなければならないか、お念仏申す人生の歩みとは、どのような内容であるかを実に巧みな譬喩(ひゆ)の中から教えられています。

彼岸と此岸の声は弥陀釈迦ニ尊の声であり、み仏と対話しつつ救いの道を進む姿が説かれます。


少し難しいかもしれませんが、実体的にとらえるのではなく、み仏との出遇いの中で、いよいよ自己が知らされ私の問題があきらかにされてきますので、自分の本当の姿に気づかされるということではないかと思います。


すべては誰でもないこの私に問われている道こそがお念仏を申す中に少しずつ知らされていくのではないでしょうか。

しかしながら人間とは悲しいかな、すぐに答え、結果を得ないと納得できないものです。

でもよく考えてみてほしい。

私がなぜ今生きているかを知るためには、生きていく中にしか知ることは出来ないものです。

二度とないこの一瞬一瞬を精一杯生きていくことにより知らされる世界、それは私だけではなく、私を取り巻くすべての方に同じように仏ははたらかれています。

だから私だけとは思わずに、周りの人達にも同じように阿弥陀如来ははたらいていてくださるので、私に執着せずに周りの人達にも同じような扱いをしていく必要があるのではないかと思うのです。


お念仏を通して、自己と対話することを是非大切にしたいと思います。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

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