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あたたまってゆきなよ

執筆者の写真: 超法寺の住職超法寺の住職

皆さま、こんばんは。いやぁ今日も寒いですね。貼るカイロがないと凍えます。

緊急事態を考えて車内にもストックしました。いつ何が起こるかわからないからね。


「あたたまってゆきなよ」

寒くはないかい、寂しくはないかい、

だったら、あたたまってゆきなよ、

お寺の本堂に坐って、あたたまってゆきなよ、

お慈悲が燃えてるよ、如来が喚んでるよ


孤独な道を往くのなら、私も一緒と喚んでる

よ、生きる力がないのなら、いのちをあげる

と、喚んでるよ、あたたまってゆきなよ

こころの底まで、あたたまってゆきなよ

[打本顕真師]


人生の寂しさ、寒さは私には乗り越えられません。行の真似事すらできない私のために南無阿弥陀仏の名号(はたらき)を成就してくださり、その功徳をもって私を抱きとり、そのまま救っていてくださるのが阿弥陀さまのおはたらき(他力本願)であります。


頼みも願いもしない私のために【先手】のおはたらきが南無阿弥陀仏の声となって届けられてあります。届けられていても受け取らなくては意味を成しません。

いただいた証は、私の口から南無阿弥陀仏が声となります。皆さまは口に南無阿弥陀仏が声になっておられますか?

まだでしたらまだ疑っていますね。

早く素直になりましょうよ。


近道はお寺へ参り、仏法をお聴聞してください。聞いてもわからない私が、聞かないでどうやってお救いに遇うのでしょうか。


親鸞聖人のみ教えは、人間のはかない命の欲望を満足させるためのものではありません。

阿弥陀さまの願いを聞かせていただき、限りない智慧とお慈悲によって永遠のいのちを賜わるのです。

人生は得るよりも、むしろ失う場所であります。たとえ得たとしても、それはほんの束の間の出来事です。

財産も地位も、肉親も、やがて私自身のいのちも失っていかねばなりません。例外はありません。


そのような私が南無阿弥陀仏を我が身にいただければ無量寿のいのちを賜わるのです。

こんな素晴らしいことを知らずに生きたら勿体ない、勿体ない。


○わたしゃ 幸せ 臨終まで 待てぬ 先まで

とられて なむあみだぶつ

浅原才市妙好人


○毎日 またれて まつを これが たのしみ

まつのは(わ)な


○ざんぎわ なむぶつで よろこびは あみだ

ぶつ これを歓喜(かんぎ)と申します

※「よろこび」は、「あみだぶつ」とうたって

おられます。そして、またそれが「懺愧」(ざんぎ)ともなり、才市さんの聞法(もんぼう)

の味わいともなります。


◎あさまし あさまし あさましいのも みな

おそ(うそ)よ もらいもの もろたし

鏡で見りゃ ようわかる 南無の鏡は

機をみる鏡 法の鏡は 親見る鏡

なむあみだぶつ なむあみだぶつ


※才市さんは、自分を見つめる「鏡」として、

【南無阿弥陀仏】の6字のお念仏をいただいて

います。「南無の鏡」は、才市さんを写し、

「法の鏡」には、阿弥陀さま、親さまを味わ

っています。「あみだぶつ」を「法の鏡」と

表現しているところに、才市さんのお聴聞の

深さと詩人としての豊かな心を感じさせます


妙好人については賛否両論がありますが、私は【依馮】(よりかかる)を実践しながら南無阿弥陀仏を灯として生きられた姿に感銘を受けています。やってみなさい、できませんぜ。

「我欲」がいつも邪魔しますからね。

であれば、「否」ではなく南無阿弥陀仏と頭が下がります。それでいいんですよ。

私と比較なんかしなくても。

私は私なんだもの。

私に丁度いいのだから。


さて今日は五十年前に連続企業爆破事件を起こし8名のいのちを奪った桐島聡と名乗る方が拘束されたという。ずっと手配書で見た人でしたから覚えています。本人か確認中だそうです。

自らが重い病となり、良心の呵責に苛まれたのなら素晴らしいことではないでしょうか。

名乗らねばわからなかったかも知れなかったのですから。これにはやはり賛否がありましょう。

阿弥陀さまのご本願は如何なるいのちにもはたらかれています。十方衆生(あらゆるいのち)に南無阿弥陀仏の法は届けられています。

どんな闇も、阿弥陀さまの慈光に照らされたら闇ではなくなります。


弥陀成仏のこのかたは いまに十劫をへたま

へり 法身の光輪きはもなく 世の盲冥を

てらすなり


であります。

普段からお読みいただいている「正信偈」の

ご和讃をよく味わっていただきたいですね。

実は私たちが考えている以上に素晴らしい

のです。


南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

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