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「間」を大切にしよう

執筆者の写真: 超法寺の住職超法寺の住職

更新日:2024年4月15日

皆さま、こんばんは。

約8年も住みますと恐ろしいくらいの物があるものです。

ちょっと手をつければあちこちからどんどん色々出てきます。

後一ヶ月半で全部荷物が出せるのでしょうか、不安になってきました。

昭和の人間、それも○○症ですから物が捨てられずたまる一方です。

パートナーがいた時には知らないうちに捨てられていたから良かったけど、

一人で生きているとそうは行かずに困ってしまいますね。

そういえば実家を出る時には70袋位捨てたけどまだまだあるのですね。

一生懸命にまとめて、どれくらい捨てられるだろうか。

断捨離って流行っていましたが、長く生きているとどんどん物が増えてしまいます。

「欲」の権化だな。それも「執着」が半端ないのです。

お恥ずかしいですね。


あってもなくてもよさそうなものってなんだろう。

ふと、そんなことが頭をよぎってきました。

あ、法話でもよくしている「間」ですね。


『間』

物体と物体の間にあるもの🟰空間

事象と事象の間にあるもの🟰時間

あなたと私の間にあるもの🟰人間


普段、あまり意識しないものですよね、間って。

そういえば、最近の人は「間」が必要のないそうです。

皆さまは、「間」といえば何を思い浮かべますでしょうか。

家なら「居間」、でも少子化で親も子もそれぞれ個室だから居間がない。

学校や会社なら「仲間」、これもいらないらしい。LINEがあれば十分らしい。

なんか寂しい世の中になってきましたね。

語らう空間がなくなってきた。

お寺にくれば語らう空間がありますよ。

超法寺なら、皆が語らい仲間はずれもないし、優しく笑顔になれるよ。


「間」がない世界は恐ろしいよ。

そんな世界で安らいで生きていけるのでしょうか。


そういえば【地獄】にも、【無間地獄】という世界があります。

地獄は自らがつくり、自らが堕ちていく世界であります。

仏教のお話ですが、決して私たちに関係のない世界ではありませんよ。

迷いの六道🟰【地獄】、【餓鬼】、【畜生】、【修羅】、【人間】、【天上】

地獄の中でも最も恐ろしい世界で【無間地獄】とか、【阿鼻地獄】(あびじごく)とも言われます。これはインドの古い言葉でサンスクリット語の当て字で「間断のない苦しみに責めたてられる」という意味です。

この地獄は非常に広大で、七重の鉄壁に囲まれ、七層の丈夫な鉄の檻が巡らされ、逃げ出そうとしても絶対にできない構造になっており、その周りには刀が林のように突き立っているとされています。

また地獄の四隅には、巨大な銅で作られた獰猛な(どうもうな)狗(いぬ)がいます。

頭は怪獣、口に夜叉、目は六十四あって稲妻のような光と雷のような鉄球を発射するとのこと。そして機関銃のように鉄球を発射するという。

牙は剣よりも鋭く、天蓋(てんがい)を突き破るようにそそり出て、舌は鉄のトゲを思わせ、毛穴のすべてから猛火を吹き出し、そこから発せられる煙と悪臭は他に例える物がないほど醜いものです。それぞれのブロックには、鉄や銅が熱く湧き立ち、八万四千匹の大蛇、毒蛇がとぐろを巻いて待ち受け、五百億匹の毒虫がクチバシを尖らせて罪人を待っている、とても恐ろしい地獄なのです。


ここまで聞いても何とも思わない人は「罪人」の自覚がない人ですね。

地獄行きの種は、【嘘をつく】、【命を粗末にする】、【盗む】、【不倫をする】、【飲酒をする】この五戒すら守れない生き方をしている私たちです。

決して他人事なんかじゃないのです。でも、自分は違うと思うのは「自我」の欲があればこそです。このような生き方しかできない私たちのために【ご本願【のお誓いが建てられたのが南無阿弥陀仏の六字の名号なのです。

どうですか?その口に南無阿弥陀仏が称えられますか?

いただかねば称えることなどできません。そんな簡単ではありませんよ。

『般若心経』が読めても、南無阿弥陀仏の六字の名号を我が口に称えることは大変です。やってみてごらんなさい。どうして称えられないか、それは私の持ち物ではないからです。阿弥陀如来の他力本願のおはたらきがあればこそであります。

例えるならば、私たちが生まれて「パパ、ママ」っていうようになるにはこれまたたいへんであります。両親が、爺ちゃん婆ちゃんが呼びどうしに呼んでくれたから、ようやくやっとのことで声となったのですよ。私が頑張って呼んだんじゃないのです。

親の思いが苦労が願いが私に届いたからこそ、声となってくれたのです。

これと同じです。


さて、「無間」という字を辞書で調べると、「たえまないこと」、「間断のないこと」、「ひっきりなし」と出てきます。

【無間地獄】の世界は、苦しみが途切れることなく続く世界なのです。

私たちの生活も、朝起きて、勉強や仕事に精を出し、休むことなく一日の生活を送っていると苦しみがどんどん増してきます。しかし、「間」というホッと一息つける空間や時間があるからこそ、一日の生活をすこやかに送ることができるのでしょう。

「間」がない世界にはとても住めそうにもありません。

普段の生活の中ではあまり考えることのない「間」。

私たちは「無間地獄」を作りながら生きてはいないでしょうか。

どうして阿弥陀さまは【他力本願】を建てられたのか、たまには考えてみませんか?


だって自ら地獄を作り、自ら堕ちていこうとしているのですから。

それを、堕としはせんぞ、まかせよ、救うと南無阿弥陀仏の声となりはたらき続け、喚び続けておられる親心に気づきたいものですね。

南無阿弥陀仏

 
 

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